昭和五十二年八月二十二日 朝の御理解 第三節


天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。


 「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず。」。天地の御恩恵に浴しながら、その御恩恵を御恩恵とも知らずに、過ごす行き方を、いうならば信心のない者の姿だとこう思う。そこで信心のある者の行き方、姿というものは、天地の御恩恵を御恩恵と知ること。それには私共が、いわゆる「天地日月の心になること肝要」とおおせられる天地の心が分からなければならぬ。それを合楽理念をもってすると、どう言っておるかと言うと、黙って治めるということを盛んに申しますね。黙って治めるということは、知っても知らずでもです、これを実行することはもう天地の親神様の御恩恵を、お働きを知って行じておることと同じことになるんです。黙って治めるということはその様にだから素晴らしいことです。天の心、地の心を、例えば知らなくてもです。黙って治めるという、いわゆる信心辛抱ということになりましょうし、段々辛抱がいらなくなって、むしろお礼を申し上げる様な心の状態が開けて参ります。だから、黙って治めるという内容には天地日月の心が入っているんです。
 これは、もういよいよ私は、合楽で言う合楽理念のマスターということになれば、この黙って治めるということは、もういよいよ自分のものになって行かなきゃならんということ。そこにです。最後にあります、「上下立つようにいたす。」とおっしゃる。いわゆる神も立ち行き、氏子も立ち行く。それから立ち行っているものが、神も立ち行く、氏子も立ち行く。神も立ち行くということということはですね。「氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」。神様も立ち行かれる、私共も立ち行くというところに、私共の感謝の心というのが生まれて来るんです。いうならば、神様と私共との間に、お礼の言い合いとでもいいましょうかね、ということになってくる。両方が立ち行く、そこに初めて合楽の世界があるんですね。拝み合う世界です。氏子と神様が拝み合う世界が開けてくる。どんなに素晴らしい、例えばみ教えを、例えば行じてもです。ならこの黙って治めるということが出来なかったら、もう崩れたも同じことになるんです。という程しにこの黙って治めるということは素晴らしいことですね。ですからもう本当に究極のところ、合楽の世界が私共の人間社会に生まれてくる。そこから、いうならば神様と氏子が拝み合う世界が開けてくる。それをギリギリ煎じ詰めると黙って治めるということになるのです。もうだから黙って治めるということはですね、もっともっと深く広く分からなきゃならないということ。
 昨日、一昨日でしたか、福岡の川上さんが毎朝参られます。「先生、昨日は失敗をいたしました。」。というのは御主人に対する何か、まあいうならば御主人に対して言うて聞かせる様なことを言われた。それが結果においては主人もうんそうだなと分かってくれて、おかげを頂いたかの様にありますけれども、いわゆる黙って治めるということには反しておったということね。だからこれはね、まあ「言うて聞かせてして見せて、褒めてやらねば誰もせぬぞえ。」という、これはおかげの世界はこれで通用するんですね。折角なら分からせるならば、その言うて聞かせるだけでなくて、自分自身も立派な生き方をして、言うて聞かせるということが相手にも伝わって行くわけです。しかも相手が幼稚であればある程、ある場合はおだてもせんならん、褒めもせんならんということ。そういう例え生き方は、どこまでもおかげの世界であってね。私は黙って治める世界というのは、やはり御神徳の世界だと思うですね。
 「天地の間に氏子おっておかげを知らず。」とこうおっしゃる。黙って治めるということは神様のお働きの寸分間違いのないということを確信しなければ出来んのです。どういう状態の中にあっても、神様のお働きというものがです、一分一厘間違いのない働きの中に、例えば腹の立つ様な問題も、<疎遠>になる様な問題も、人から悪口言われる様な問題も、それを神様のおかげと悟った時にです。悪口言われることも損をしたことも、腹の立つ様な問題も煎じ詰めていきよると黙って治めるだけではない、そのことに対してお礼を言わなければならないということになります。もうこれはもう本当に、あのもうおかげに直結する頂き方ですね。神様のお働きを、<そう>いわゆる成行きを大事にするということなんです。黙って治めるということは。ですから私共がです、「天地の間に氏子おっておかげを知らず。」ということは、例えば様々に説明を受ければ分かることが沢山あります。もう本当に御恩恵の中にありますけれども、人間のためにはあまり嬉しくないこと、困ったこと、そういうこともやはり御恩恵の中にあるんだということが分かった時にです。私の上に起きてくる、いわば天地の働きをそのまま天地の働きとして、黙って治めていく。こりゃ私は、いよいよ黙って治めるということをです身に付けなければならない。黙って治めるということは、黙って歯をくいしばって辛抱しておくということだけではなくて、神様の心をより深く分かろうとする精進の心を持って黙って治めるのじゃなからにゃ勿論いけないですね。もうそこから開けてくる、そのおかげというものは何ともいえんです。
 二、三日前この頃、昨日、明日御大祭の祈念祭のためのいろんな準備に対する委員会が開かれました。委員会をまとめるまでに皆さん何日も何日もパンフレットの出来たのでも、あけだけでも随分時間が掛かっておるです。それにいろいろな細かいところにするためには何日もほとんど寝なしの様にして、おかげ頂いております。昨日、一昨日もやっぱり私が新二階でしたから、上がった時にはもう一時半でしたが、まあだ盛んに十何人の方達が、一生懸命それに取り組んどりました。休む時には二時半だったでしょう、という様にです。なさっておる時に聞かせて、正木先生と秋永先生から聞かせて頂いたんですけれども。もうそれこそぞうわたが煮えくり返るごと腹の立つ様な問題が、そこにいくつもあるわけです。
 昨日それを聞かせて頂きよってから、そうばってん秋永先生、正義さん、これは神様にお礼申し上げにゃんこつばいと私は申しました。もうほんなごて、ちょいとあげな奴はおらんと。もうちょっとそれこそ、まるきり合楽教会のかたきごたる奴じゃけん、お気付けの一つぐらいばちばちやってもらわにゃでけん。そんな話だったんです。なるほどなあ昔、椛目の時代は、当時の椛目のお広前のことを大変障害になったり、あの障害をしたり、邪魔をしたり、悪口言うた人達は皆、本当にそりゃどうにもこうにも出来ない様なお気付けをてきめんに頂いたものです。もうそりゃもういくらも事実があるんです。例えばあの、まあこれは軽いことですけれども、青年の人達、若い青年の方達が二、三人で当時の椛目の横を通りよった。「はあここが椛目のこんこんさんばいね。」ちゅうちから言いよった。私もたまたま、丁度庭のところに出とったんですね。そして金光さんの何とかと言うて、二人で悪口、竹竿をこうやって担いで行きよったんですよ、めいめい。そしたらすぐ前に原口さんという店がありますが、その竹竿をこうやって担いで自転車に乗って行きよったつが、その屋根の軒の廂のところに突っ込んどるです。何か悪口を何とかかんとかと言いよった途端に、そいでもう屋根を、だからひっくり返ってからもう、こうやっておかしかもんじゃけん、あの自転車に乗って行ったですけども、ああもう本当にてきめんのことだなあと私は思ったことがあるけれども、そん位のことならまあね。けれどももう本当にそれこそもうどうにも、どうにもと言うがね、もう命に関わる程しの様なことがいくつもあったです。もう私の悪口言いよったら、めのめきざんに口がこうやって膨れちからですね。(笑)物言われんごと膨れたり、といった様なことがあったんです。それも段々信心が、私の信心も進んで参りますから、そういうなら悪口を言う人達でもですね、まあいうなら可愛いものじゃという様な心が段々出来てきて、この頃は、めのめきざんな罰被るといった様な、例えていうならそうでしょうかね。
 昨日秋永先生と正義先生が、あげん奴は一丁お気付けば頂かにゃでけん。昔ならてきめんに頂きよったろうばってんね。けれども今の合楽にはそういう人達も助かっていって貰わにゃならんからと言うて話を段々聞かせて頂きよったらです。本当にその問題がこういうことになって、こういうことになるということは、合楽のためには願ってもないことに結果においてはなろうごとあるじゃないのと言うて話したことでした。だからこれは改めて、お礼申し上げなきゃいけないことだねということです。これが恐らく後でおかげになってくることでしょう。ですからもう本当に成行き、その恨んでとか歯を食いしばって辛抱するというのじゃなくてです。私共は凡夫ですから分かりません。分かりませんけれども、神様のお働きに間違いがあろう筈がないとして、それを黙って、いわば受けていくというか、成行きをいよいよ大事にして、そのことにお礼をいうていく様な心持ちが開けてくるということは、天地の心が分かった人でなからんと出来ないことなんです。
 天地の中に住んでおる人間が、おかげをおかげと知らないとここでおっしゃっとられます。そのおかげをおかげと知るところにです、そのことをなら黙って治めるということになるわけです。そして神様のお働きの無駄のないこと、そしてこういうおかげを下さることのための働きでもあったということが段々分かってくる。私は今日は大体、天地金乃神と申すことは、「天地の間に氏子おっておかげを知らず。」というところは大変難しく、教団金光教では説くです。もう私共の頭ではとても理解ができない様な説き方をされとります。けれども私は、とにかく天地の間におっておかげを知らず、ならおかげを知ったらどういうことになるかというと、今申します様に自分達には分の悪いことでも、おかげであると分かってくるわけです。だから黙って治めるということになるのです。しかもその黙って治める、私共の場合は黙って治めることによって徳を受けていくということも、川上さんじゃないけれども、言うておかげにしていくことも、やっぱりありますけれども、しかし言うておかげにならんなら、これは本当にこんな無駄なことはありませんのです。だから本当いうたらギリギリ黙って治めるという信心を身に付けるということは、もう合楽理念の真を大事にするということと同じことです。もう黙って治めることにはいろいろ皆さんが体験されますと、様々なことがありますよね。今掃いたばかりのところをもう散らかしとると言うたら、もう言うことになる。けどもそれを黙って取り片付けたり、また綺麗にしたりする。それをまた御用が出来たという様な頂き方をすれば、お礼になる位なことなんです。いわゆる心行です。心行しておると、そういう様な些細なことでも黙って治めるということだけではなくて、黙って、いうならばお徳を受けていけれる道にあることになるのです。だから黙って治めるということは、天地の親神様の、いうならばその半分が分かったわけです。地の信心といいましょうかね。いわゆる黙って受けて受けて受け抜く心だと。それをしかも受けて、自分の心をいよいよ豊かに大きくすることの手立てにしていこうというのです。黙って治めるということね。
 昨日の委員会に沢山な方達がめいめいが、いうなら大祭に対する一つの自覚といったものが段々出来てきて、盛り上がってきておるしるしですけれども、時には日曜でしたから、特別奉修員の時に、久留米の佐田さんが頂いておられる御心眼と御神<事>です。秋永先生を先頭に沢山の人が、もうザワザワざわめいておる中に聞こえてくるのが「見よ東海の空あけて、旭日高く輝けば、天地の精気溌剌と」といった様な。あれは何の歌でしたでしょうかね戦時中に。(それは愛国行進曲と答えあり)そうでしたかね。私はこのことをお礼申さして頂きよりましたら、あの世界地図を頂いたんです。だから世界地図をもってすると、南米は丁度東にあたるですね。地球儀で見ると真裏に当たるわけです。けれどもほほう見よ東海の空明けてということは、南米の地に合楽理念の種が蒔かれて、これから一粒万倍になろうとする様な働きが起こっておるということだと思いましたですね。今合楽にはそういう生気に満ちた、それこそ旭日昇天といった様な感じが合楽にはあるわけです。今度の夏期大祭には何かそんなものが感じられましたですね。ですからそういう働きに私共が便乗するということなんです。なら祈念祭、祈念祭と、これだけではなくて、その祈念祭に私共が、いうならば喜びの心、勇の心をもって、それに同調していこうとするその心なんです。そこには私共が限りない欲徳を外した限りない美しい心というものが求められるわけですね。
 だからそういう信心が出来た時、天の心が分かったということになるのじゃないでしょうか。限りない麗しの心が天の心、しかも無条件だというのですね。祈念祭を迎えたならば、祈念祭の後には今度は一生懸命祈念祭のために、こちらが、いうなら身を粉にしてでも勤めよう、その代わりその後はこちらが徳を受けんならん、こちらがおかげを受けんならんといった様な条件がないことです。これは私がいつも申します様に、あちらから引き上げて帰った時が、丁度親教会の四十年の式念祭、祈念祭。そこで祈念祭に丁度一年前に、その委員会があった時に、私がこの一年間、いわば全身全霊を祈念祭に捧げよう、というお誓いを、お取次を頂いてお願いをして、そして私の体の上から起きてくる一切の収入というものを全部祈念祭のために使わして頂こうと。その時分は全部で一万円あれば祈念祭が出来たという時代なんですよ。そんなに一万円というお金が値打ちがあったんですね。いわゆる三十数年前の話です。ですからそういう意気込みでいろんな仕事をさして頂きましたが、本当に置いたものを取る様な順調さが出て来たかと思うけれども、その反対にはそれが皆ひっくり返っていくという様なことになってきたんです。いうならば儲かった筈のが、その儲かっていないということになる。働き損。もう十二月の三日が御大祭です、十一月になったんです。そして締めくくってみたら何も残っていないという状態でした。
 だから私は神様に対してちっともやもやしてきたわけですね。どういうわけで、私がこんなに真心一心で一生懸命頑張りよるとに、神様はこういう結果になさるかわけが分からん。その神様の心知りたしと思うて、親先生には商売に出ると言うて、何日か御無礼することをして、私は耳納山中にまあ籠ってですね。今頃からいうとそんなことは嘘の様な話ですし、また今の合楽にはそんな信心は許されませんけれども。それから山の中でそれこそお米を少しばかりとリュックにいろんなものを担いで、それから家には山越えで星野に行くと言うて山に登りだしたら、その中腹で、もうそれこそ十一月というのに、それこそ恐ろしい様な夕立に遭いましてね。もうそりゃ山の中の雷さんちゃ凄いですよ。それから途中にあの滝場があります。そこに走り込んで、そこでいきましたけれども、ここで修行させて頂くだろうというので、その滝場でそれこそ大秡を奏上しながら、お滝の水を頂いて、それからお籠り堂がありましたけども、そこには先に入っとる方があったもんですから、こちらに小さい観音堂があります。そこは扉も何もない様なところですけれども、そこで二晩過ごさして頂きました。その二晩目にあの私が、いわば神様にお知らせなんか頂けない時分ですけれども、今から考えてみると、御神夢だったんです。そしてその御神夢の中に、もうそりゃ素晴らしい大きな井戸があって、その井戸を覗いてみると、もう見事、底が透き通る様な水があって、中に井戸一杯の大きな鯉が泳いどるところを頂くんですよ。それで私が、ああ今度の大祭のお供えはこれだと心に思うてです、その井戸の縁に立ってから小便をしよるところを頂いたんです。そして小便をし終わってから、しもうた、もうこれで不浄が付いたと思うて目が覚めたんです。そして私が十一ケ月間一生懸命神様のために、神様の祈念祭のためにというて、御信心させて貰うたり、一生懸命働かせて貰って、これがなるほどその思いには神様が健気な心として置いたものを取る様なおかげを下さったんだけれども、その反面には全部ひっかかりになってくるわけです。
 だから結局どういうことであったかというと、一年間私はあなたのために奉仕しますと、神様のために。けれども祈念祭を終わったら私に力を下さいよ。私の上の商売大繁盛のおかげを下さいよというものがあったわけです。だからね、条件がある奉仕では駄目なんです。不平不足が起こる様な奉仕では、だから駄目だと。いうなら天の心です。麗しい心です。無条件です。天の心は与えて与えて止まない心、しかも無条件だと言われとります。
 昨日頂く「天真地心」ということはそうなんです。天の真という。だから真というのは美しい心で奉仕をする、美しい心で捧げる心。しかもそれは無条件であるという。だから祈念祭なら祈念祭という様なチャンスというのはまたとない、その祈念祭に私共は真心一杯、しかも無条件の麗しい心で奉仕をするということは、いうならば天の心が分かってのことだということになるのじゃないでしょうか。黙って治めるということが地の心なら、美しい心で黙って一生懸命、全身全霊を祈念祭に捧げるという行き方を身に付けさせて頂く時にです、いうなら天地の心が心として分かった時ではなかろうか。そういう天地の心を心とする行き方の、その根本になるものは黙って治めるということ。そこにはどういうことになるかというと、神様から神様が教祖金光大神様に一礼申すと、お礼を言っておられる様に、天地の親神様が大坪総一郎に一礼申すと言うて、お礼を言うて下さる程しの、私は信心を頂きたいと思う。そこから初めて、いいえ神様、あなたのおかげで御用が出来たんですよと言うことになってきて、いいえお前のと言う内に接近していくわけです。神様とお礼の言い合える世界がね、いうなら合楽の世界が、生まれて来るわけです。そこから交流するもの、そこにです、末々まで繁昌いたすこと、ということになるのです。末々まで、いわゆる家繁昌、子孫繁昌の基というのは、そういう信心から生まれて来るのですね。しかも私共がです、それこそ見よ東海の空明けて、旭日高く輝けば天地の生気が満ち溢れておる合楽のお広前でです、そういう御用に専心させて頂くならば、一番信心のしやすい時、便乗の出来る時、そういう、いうなら合楽の勢いに便乗させて貰うて、お互いの助かる、お互いのおかげの頂けていけれる道を開かせて頂きたいと思いますね。それは今、南米で合楽の御比礼が輝き出した様に、お互いの上にもそれこそそういう凄まじいまでの、これはもう人智人力ではどうにも出来ない、いうならば死から生に蘇る様に、ならんことがなってくる様な働きを受けるためにも、そういう天地の心を心とする、それも天地の御恩恵が分かれば分かる程、一切を黙って受けていく、黙って治めるということの素晴らしいことの体験を積みながらです。おかげを頂いていきたいと思います。どうぞ。